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自信が欲しければ「ひとりぼっち」になるべし!他人から自分を自由にする思考法

最近いつ「ひとりぼっち」なった?

会社や家庭での時間に加え、SNSが普及したことで、私たちが完全に「ひとりぼっち」になる時間は非常に少なくなっています。これは一見良いことのように思えます。

誰だって寂しい思いをするのは嫌ですし、みんなで過ごす時間は楽しいからです。しかしもし「ひとりぼっち」時間の減少が、私たちの抱く自信の有無や大小に悪影響を及ぼしているとしたら、どう考えるでしょうか。

 

現代人の自信は他人に「奪われている」

●人間関係にがんじがらめになる現代人

私たちの社会は非常に高度なコミュニケーション能力を求められています。「空気を読む」スキルはその最たるもの。言葉を使わずに目線や仕草、状況などから相手のメッセージを汲み取り、こちらも言葉を使わずにメッセージを伝える……普段何気なく行なっている空気を読むという行為も、こうして考えてみるとかなり難易度の高いコミュニケーション能力です。特に日本ではより高度な空気を読む能力が求められることは、いうまでもありません。

しかも現代人はリアルな人間関係以外でもこのスキルを要求されています。そのカテゴリーは「SNS」という大きな括りだけでは不十分でしょう。FacebookTwitterInstagramなどにはそれぞれの空気が存在し、それぞれのやり方で空気を読まなくてはなりません。さらには電話にEメール、SkypeにLINEなど、私たち現代人は常時誰かと繋がり、人間関係の中で生きています。

すると自分でも気づかないうちに、自分の言動や思考の軸に人間関係を据えてしまい、人間関係が人生のすべてになってしまいます。これはSNSでの自撮りやリア充アピールに血眼になっている人たちだけではありません。以下のような思考の癖がある人は、すでに自分の人生を人間関係を軸に据えてしまっているのと同じです。

・世間体を考えると……。
・会社での評価を考えると……。
・「自分は○◯に比べて裕福だ(貧乏だ)」
・「自分は○◯に比べてカッコいい(ダサい)」
・「自分は○◯に比べて幸福だ(不幸だ)」 など

私たちは世間や会社、家族のほか、「同級生」「地元」など様々な群れの中で生きています。それ自体は悪いことではありませんが、ひとたびその群れのルールやヒエラルキーに自分の自由な行動や思考を奪われれば、人間関係に人生を侵食されてしまいます。

●本当の自信は群れの中では生まれない

「人間関係が人生のすべて」になることが、現代人特有の不幸を生み出している。
引用:前掲書p25

群れに居場所がないと不安になったり、群れに所属していないと不安になったり、その不安を解消するために自分の自由な行動や意思を犠牲にしたり……PCやスマホSNSが普及した現代だからこそ、こうした苦しみはいや増しに増しています。

名越さんが著書の中で指摘しているわけではありませんが、この「現代人特有の不幸」は私たちの自信喪失にもつながっています。なぜなら「人間関係が人生のすべて」ということは、「自分は自分で何ひとつ判断して、行動できない」というレッテルを自分に貼るということだからです。

群れを自分より優先して生きる場合、何をするにも群れにお伺いを立てなくてはなりません。群れの判断基準でOKが出て初めて実行が許されるのです。群れの判断基準への理解が深まれば、ある程度は自分で判断できるようになるかもしれません。

そうなれば「自分の判断は正しい」と自信を持つ人もいるでしょう。しかしこれは自分の判断基準を群れの判断基準にすり合わせただけのこと。仮に倒産などで群れが崩壊すれば、同時にその判断基準も自信も崩壊します。

どんな状況にも柔軟かつ冷静に対処できる本当の自信というものは、群れの判断基準に寄り添っているだけでは生まれないのです。

●「ひとりぼっち」が本当の自信を生み出す

名越さんが、人間関係にがんじがらめになって、自分自身すら見失いがちな現代人への生存戦略として提案するのが「ひとりぼっち」になることです。ひとりぼっちになれば、思考も言動も判断も、すべて自分だけでやらなければなりません。

そして実際にやってみると、自分でやればできることに気づけるだけでなく、所属している群れのルールやヒエラルキーが絶対でないことにも気づけるようになります。すると自立した本当の自信が手に入ると同時に、群れに対して客観的に向き合えるようになるのです。

「自分の認識の壁を乗り越える」ということは、心理学的にみて、その人の人生に他では得られない、大きな喜びを与えてくれる体験です。
引用:前掲書p73

名越さんによれば、「自分の認識の壁を乗り越える」ためには群れの価値観から自分を切り離し、ただ目の前のことに没頭する必要があります。

私たちは得てして何かをしようとすると「この行動にはどんな効果があるのだろう?」「何か役に立つだろうか」と考えがちです。しかしそう考えてしまうと、すでに群れを基準に行動したり思考したりする癖がついている人は、つい群れに評価される方向に舵を切ってしまいます。

このように考えると、厳密な意味でひとりぼっちになるには、これといった目的を持たずに行うアクティビティ(以下「無目的アクティビティ」と呼びます)に打ち込む必要があります。ここからは名越さんの著書の内容から離れて、この無目的アクティビティについて具体的に解説していきます。

「無目的アクティビティ」のすすめ

●「無目的アクティビティ」の基準

いざ「無目的に何かに没頭しろ」と言われても、何が無目的アクティビティで何が目的を持ったアクティビティなのかが理解できないと思います。そこでひとつ自問自答してみましょう。何かをしようと思い立ったら「何のためにやるのか?」と自問してみるのです。

そこで「健康のため」とか「仕事に役立つから」といった答えが思い浮かんだら、それは無目的アクティビティではありません。それがもし無目的アクティビティであれば「なんとなく」とか「ただやりたいから」といった漠然とした答えが返ってくるはずです。

といっても無目的アクティビティか否かの違いは、最終的には自分自身で理解するしかありません。この自問自答をきっかけとして、自分なりの基準を確立しましょう。

●たとえばこんな「無目的アクティビティ」

あらゆるものは無目的アクティビティになり得ます。「生活のため、お金のための仕事」が「ただ仕事がしたいからする仕事」に変われば、仕事すらも無目的アクティビティになります。しかしできれば、どちらかというと遊びに近いことを選ぶ方が、より没頭しやすくなるでしょう。

特に登山やサイクリング、ジョギングや筋トレといった体を使う遊びは、やればやるほど頭を使う余裕がなくなっていき、自然とアクティビティ自体に没頭しやすいので、効果的です。

もちろんグループで遊びに出かけてしまえば「ひとりぼっち」にはなれないので、必ず精神的にも物理的にもひとりで出かけるのが条件です。

あるいは多くのビジネスパーソンが、仕事上のメリットを目的にしがちな瞑想も、本来は無目的アクティビティの代表です。世界各国で瞑想指導を行う上座部仏教の人気僧侶ウ・ジョーティカさんは著書『自由への旅「マインドフルネス瞑想」実践講義』の中で、次のように語っています。

どうが取引しないでください!人はできる限り少なく与えて、できる限り多く取ることを望みます。これは、とくに瞑想においては正しい態度ではないと私は思います。
引用:前掲書p15

瞑想による利益(=目的)を考えず、ただ悟りが得られるまで瞑想をし続ける。瞑想という行為に没頭する。これこそが瞑想の本質だとジョーティカさんは言います。すなわち瞑想は「ただ瞑想したいから瞑想する」という無目的アクティビティなのです。

どんなことでも構わないので、「なんとなくやってみたい」「ただやりたいからやってみたい」と思うことを見つけて、試してみてください。

「ひとりぼっち」の時間を作ろう

私たちはひとりぼっちの時間のあと、再び群れに戻っていなければなりません。しかしその時には以前の「人間関係が人生のすべて」という認識は消えてなくなり、群れのルールやヒエラルキーが絶対などとは考えなくなっているでしょう。

つながりすぎている現代人にとって、いきなり「ひとりぼっちになれ」といわれても最初はためらいの方が大きいかもしれません。名越さんも著書の中で「人は変わることを嫌う生き物だから、自分の提案を実践してくれる人は少ないだろう」と書いています。

しかし変わるために行動しなければ、今抱えている虚しさや自信のなさも変わらないままです。棚から落ちてくるぼた餅のように、劇的な自己変革がどこからともなくやってくるようなことは滅多にありません。

寝る前のストレッチや瞑想からでも構いませんし、「自分だけが食べたい料理を、自分だけのために作る」といったアクションでも構いません。現状に不満を感じているなら、少しずつでも「ひとりぼっち」の時間を作りましょう。